ヲシテ・ひとり学会(縄文の旅)

『ホツマツタヱ』を中心とした「ヲシテ文献」の学習記録

99回京都「ヲシテ講習会」のご報告

 第99回京都「ヲシテ講習会」が、2024年の3月16日(土曜日)に京都市国際交流会館で開催されました。私は今月も自宅からzoomでの受講で、受けさせて頂きました。\(^ω^)/仕事の都合で日程が合わなくなっても、受講できる時代になって有り難いと思っています♪

 さて今回は、記念すべき京都での99回目(ツクモの講習会でもあり、『ホツマツタヱ40アヤの(後半)、最終アヤの講習会にもなっています。そして、3月は年度末でもあり、私の「JUGEM」のブログも『ホツマツタヱ』の40アヤまでを終了した時に、メモリー容量がいっぱいで終了になりました。本当にタイミング良く進んでいる時は、何だか神様に導かれている様な気がします。( ^∀^)♪ 

 池田先生も、記念すべき回になったと言う事か、今月は「ヲシテ文献」の発見者でもある、松本善之助先生の書かれた掛け軸を持って来られました。「いのち」と書かれた文字には、野菜の絵も描かれていますね。ホツマツタヱの最後の箇所には、流石に奥深い意味が込められていて、池田先生はその意味もわかって来たと言う事で、「いのち」の言葉を選ばれたようですが、やはり最後を飾る言葉に相応しいと思えますね!

 

(「いのち」:松本善之助先生の書かれた掛け軸)

 

 午後の1時になって時間となり、講習会が始まりました。今月の初めの話は、12代の「ヲシロワケ」(景行天皇)の次の13代ワカタリヒコ」(成務天皇は、どこで政務をとらたか?という事でした。

 その場所は、奈良から外れた「高穴穂の宮」景行天皇が亡くなられた琵琶湖畔が都となりました。どうも38代の天智天皇のときもそうでしたが、大陸からの脅威が問題となる時代には、近江が対大陸の前線基地となるようですね!

 

(13代「ワカタリヒコ」(成務天皇)の都は、高穴穂の宮)

 

(40アヤ「アツタカミ ヨヲイナムアヤ」(後半)のお話)

 

 そして、40アヤ(後半)の話が始まりました。・・・話内容の話は、いつもの如くに以前に書かせて頂きましたので省かせて頂きますが、今回の特記事項は池田先生から、合田さんの書かれた論考が、紹介されたのでした!\(^-^)/ 合田さんは、景行天皇の夢に出て来た「ヤマトタケ」さんの言葉、今回のキーワードにもなると思いますが、うらやみて カリの 親子ぞの部分を分析して解釈し、池田先生にメールを送られていたのですね。

 

 運良く私も、合田さんとはメールのやり取りをさせて頂いていましたので、この分析を先に読ませて頂いていました。いつもながらの鋭い分析だと、思いましたよ。♪

 

(合田静江さんの「うらやみて カリの親子ぞ」の解釈のご紹介)

 

勝手ながら、合田さんの解釈を少し転記させて頂きますね。( ^∀^)♪

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「うらやみて カリの 親子ぞ」の解釈
ヤマトタケさんのミタマが ヲシロワケさんに コトをあきらかにして、
遺された人々の悲しみをやわらげるために告げたユメの言葉です。
ヤマトタケさんは 「ソサノヲのミタマは、生前は兄アマテルカミを羨み、死後はニニキネさんを羨んだ」と言っています。
それはもし転生が叶うならば、ニニキネさんのような立派なココロザシでもう一度やり直したいとソサノヲが強く願ったからです。
ヤマトタケとして生きていた時には解らなかったもろもろが、アノヨに行ってすべてわかった、(表も裏もわかった)
 
うらやみて、について
ヤマトタケがニニキネを尊敬こそすれ、羨むとは!という見方(山脇さん)もあるかもしれませんが、ウラヤミテ の言葉には 「ウラ や  ミて 」 の意味が重なっていると思います。
(ソサノヲが) ウラや ミて だった と ヤマトタケさんが言っているのです。
 
ウラの意味
①表、裏の ウラ
 アの世に行ってソサノヲは自分の言動が相手にはどのように映っていたかが解った。
【一枚の紙にも裏と表があるように、自分と相手、する者とされる者、同じ事柄で相反する立場がある】
 ソサノヲはあの世に帰って初めてこの世で自分のしたことがどういう事だったか実感できた。 どれだけ心配をかけたか、どれだけ迷惑をかけたか、どれだけ自分勝手でわがままであったか、 全て相手の身になって(ウラや 見て)真相がわかり、やり直せるものなら、と反省し、後悔する。 
 → → → それに比べてなんとニニキネの立派なこと!ああ羨ましい、あんな生き方ができたら、やり直せたら、、(つづく)
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 まだここから続きがありますが、この様にかなり詳しい分析をされていました!分析力が、素晴らしいですね。♪( ◠‿◠ ) 池田先生も、ここの部分は解釈がとても難しい箇所ですので、この分析と解釈に、かなりの感動をされていた様でしたよ!\(^-^)/

 

 

 ただ、私の解釈はと言えば、前の「JUGEMブログ」に書かせて頂いた様に、少しは違うところもありますが、解釈は個人により絶対に違って来ますので、幾つもの他の方の解釈を聞かせて頂くのが知識と見方が豊かになるので、良いのだと思います。皆様もご意見がありましたら、是非聞かせて下さいね♪( ^ω^ )

 

 そして、今回の40アヤ(後半)に出てくる「ウタ」のやり取りに関しては、『ホツマツタヱ』の全巻を暗唱暗記された、あのBebeさんからも、それぞれの「ウタ」の関係性について、具体的にいくつかの部分を画像に示したメールが池田先生の元に届いていて、ご紹介して下さいました。Bebeさんの分析は、本当にいつも鋭いと思いました!!(◎_◎;)

 

(ミヤツヒメの「タカヒカル」のウタが、ヤマトタケの「ワガヒカル」へ続く箇所)

 

 そして最後に、ナント!私が池田先生に出したメールのご紹介までして下さいました。内容は、飛騨神岡の「大津神社」獅子舞の事でした。今から10年前に「大津神社」の20年に一度の大祭があると新聞記事で知って、とにかく凄く大規模な大祭だと言う事で、5月の6日ゴールデンウィークの真っ只中に、見に行ったのでした。

 そこで驚いたのが、渡御の大行列と獅子舞の盛大さでした!!(◎_◎;) 今回は40アヤを読み直して、その理由となることが、最後の箇所に書かれていたと思ったのです。

 

40-90(10755)

      オホヒコノマコ

イワカナリ カシマカクラノ

シシマイオ トエハトキヒコ

 

(私が池田先生に書いた、メールの文章をご紹介の箇所)

 

 因みに、私が池田先生に書いたメールの箇所は、以下の通りです。

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「オオヒコ」の孫「イワカ」と獅子舞の関係について

 40アヤの最後の話として、獅子舞の話が出て来ますが、この箇所を読んで気づく事がありました。丁度10年前に見に行った飛騨神岡の「大津神社」の20年に一度の大祭の模様のことです。2014年5月6日、の「大津神社」は5日と6日の2日間合わせて飛騨地域一円から神社約130社、総勢3500人の氏子が参集しました。

 本当に、街中がお祭り行列で埋め尽くされ、どんなに大きな徳のある「カミ」が居られたのか?と思っていたのですが、後に調べたら「大彦命」(おおひこのみこと)という事で、「オオヒコ」さんだったのですね。中でも一際目についたのは、獅子舞組の多さで「カシマカグラノ シシマイ」が、この飛騨の地で、どうしてこれ程までに盛大に行われているのか?も、ずっと不思議に思っていました。

 それが今回の読み直しで、40アヤの最後のお話に、「オホヒコノマコ イワカナリ」と書かれていて、(鹿島神楽の獅子舞の事を尋ねた)とありますので、大彦の子孫の「イワカ」さんは、景行天皇のお供で行かれて、大変に獅子舞に興味を持たれたのでしょうね!この事が元で、飛騨神岡の「大津神社」の獅子舞大会に繋がっているのかと思うと、10年来の疑問が解けた様に思いました。

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 「イワカ」か?「イワカナリ」か?については、池田先生は「イワカナリ」だと言われていましたが、この方(かた)は御祭神の名には残っていないのが残念でした。

 

 最後の質問のコーナーになりますと、私は予め考えて無かった事に気づいて、その場で一つ質問を考えました。・・ところが、咄嗟に考えた質問は的を外していて、これまた残念!(⌒-⌒; )

 

 

 聞きたかったのは、「ナナクサノ ミアエニウタノ ヒカスヘル」という箇所の解釈で、「ウタノヒカス」(ウタの日数)とは、ウタの会に出席する日数の事ではないですか?とうい事を聞きたかったのでした。池田先生の資料には「ウタノヒカス」(31日まで経ても・・)となっていましたので、疑問に思ったと言う事でした。中々準備が足りないと、上手くいきません!(汗)次回からは、ちゃんと準備しなくては、と反省しました!

 

・・・と言うわけで、今回は合田さんの「うらやみて カリの親子ぞ」の論考も大きく取り上げられましたし、私の「大津神社の獅子舞」を見た感想についてもご紹介頂けました!\(^-^)/本当に有難い『ホツマツタヱ』の最終回となって、とっても良かったです!

 

 また次回からは、ミカサフミが始まりますので、益々楽しみにしています♪( ◠‿◠ )以上、今回も分かりにくい話だったとは思いますが、最後までお付き合い下さいました方には心より感謝致します。有難うございました。ではまた。