ヲシテ・ひとり学会(縄文の旅)

『ホツマツタヱ』を中心とした「ヲシテ文献」の学習記録

「キツヨヂノアヤ」(東西南北・四つの大切な方位の話)

 前回のブログ(『ミカサフミ』の序言)を見直してみますと、既に2度目になっていました。(⌒-⌒; ) 我ながらすっかりボケちゃっている事がハッキリしました!(笑笑)でも、1度目よりも2度目の方が、更に推敲されて少しは良くなっているのではないか?と思います。

 気を取り直して、今日は「キツヨヂノアヤ」をやってみたいと思います。ひとつの解釈として参考にしていただくか、解釈の間違いを探していただければ幸いだと考えています。いつもの様に、宜しかったら是非お付き合い下さい。それでは、今日も元気に始めます。\(^^)/

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ミ1-1(10842)

ミカサフミキツヨヂノアヤ =1、御笠文「東西南北の四つの大切な方位の話」

ミカサヤニ   =「ミカサヤ」(春日大社)に居られる

アマノコヤネノ =「アマノコヤネ」が

トクフミハ   =説いて下さった「フミ」(御笠文の前半)では、

タテニヌキオル =「タテ」(縦糸)に「ヌキ」(横糸)を通して織る布を

マツリコト   =「マツリゴト」(政治)に例えてお話をして下さいました。

ヨヂヒトクサオ =「ヨヂ」(東西南北の四つの大切な方位)があればこそ、人々を

ヲサムナリ   =治められると言うことです。

 

モシヤミチキク =(コヤネは、)「もし「ミチ」(政治の話)を熱心に聞く

ココロサシ   =志のある人が

アラハトアケテ =居るならば、「ト」(重要な書物)を開けてでも

サツクヘシ   =授けてあげましょう。」と言われました。

 

コモリノイワク =それを聞いて、「コモリ」が質問をしました。

アケナハ   =「「ト」(大切な書物)を開けて授けてくださるのであれば、

カミノミコトヤ =「カミ」の「ミコト」(大切な教え)が

アカラサマ   =(誰にも)明らかになるのでしょうか?」

 

コヤネコタエテ =「コヤネ」がその質問に対して答えました。

ミチハワヂ   =「「ミチ」(祭り事の道)は「ワヂ」(地の道)です。

ハヤクオソキモ =理解が早い人も、遅い人もいますが、

ココロアリ   =その人の心次第で違って来ます。

タツネキタラハ =訪ね来たのならば、

ワレアヒテ   =私が会って、

ソノミチノクオ =その人に合わせた「ミチノク」(奥義)を

カタルヘシ   =語るべきだと思っています。

キミノマツリモ =そうする事が、君の「マツリ」(祭り事)も

スミヤカニ   =速やかに行き渡りますし、

モツレオタダス =(誤解による)縺れを正すことも出来ますので、

カミノミチ   =「カミ」(御祖)の「ミチ」(祭り事の道)に叶うのだと思います。

 

カタチツトメ =1、「カタチ」(儀式の教え)と2、「ツトメ」(実務の教え)

ミチト   =3、「ミチ」(法規の教え)と4、「ミ」(修身の教え)と

ヨツノヲシエモ =この四つの教えも(全て)

タタヒトヂ   =「タタ」(教える事・教義)の一路として、同じです。

 

ヲコヌノカミノ =「ヲコヌノカミ」(クシヒコさん)は、

コノヨツオ   =この四つの教えの路を

アワトニシレル =「アワト」(天地の法則)により知って、教えておられました。

ヒトノミノ   =人が「ミ」(自分の身)を修養する際には、

ヨツオツツシム =(カタチ、ツトメ、ミチ、ミの)四つを知って慎むことが、

ハタノミチ   =「ハタノミチ」(機織りの教え・修養の道)でもあります。

 

ツカサノカミハ =例えて言うなら、「ツカサ」(司)のカミは

クニヲサム   =「クニ」(国)を治めますが、

ナカニハシメル =「ナカ」(宮の中・トミ)には締めるが、

シモハタス   =「シモ」(下の者・タミ)は助ける様にするものです。

カレニイマトク =然るに、今から講義をするのは、

ヨカノハタ   =「ヨカノハタ」(職務に関する四締)の話です。

シタエハウイニ =「シタ」(身分の低い者)にとっては、「ウイ」(初め)に

ミオヲサム   =身を修める為に(聞くべき話ですが)

ソラナルモノハ =「ソラナルモノ」(身分の高い者)は、

チヂキケト   =「チヂ」(幾千回も)聞きなさいと言っておきます。

 

ミノミハシラオ =自らの身に御柱を立てて

ユキムケテ   =(職責に)立ち向かって行くのに、

コエオチガエノ =「コエ」(豊かにする対象)を間違えての

タカハタノ   =「タカハタ」(高機織り・職務)をしていては、

ソラヒノオトハ =「ソラヒ」(空杼・空織り)の音がするだけで、

ミニツカス   =(実力が)身につきません。

 

キクトノホホト =ここまで聞くと、講堂では「ホホー」と感心の声がでて、

ノタマエハ   =(アマノコヤネが、)この様にお話しされた事に、

コモリコキミモ =「コモリ」は勿論のこと、「コキミ」(九人の君・アメトコタチ)も

モミコト   =百人の「ミコト」(命・君のお子さん達)も

ミチヒコモミナ =三千の「ヒコ」(彦・君のお孫さん達)も皆

ウナツケハ   =頷くのでした。

 

サルタハミチノ =すると、「サルタヒコ」が「ミチ」(教義)の

ウイオトフ   =「ウイ」(最初の教え)についてを質問しました。

コヤネコタエテ =その質問に答えて、「コヤネ」は講義を続けました。

キツノナオ   =「キツ」(東西)の方角の名を

ヲシエノハツト =教えの初めとしますが、

ナスユエハ   =その様にする理由は、

イマワレウメル =今の私を産んで下さった

タラチネノ   =両親の

サキノミヲヤモ =その前の御祖も

コトコトク   =ことごとくが、

アメノタネナリ =「アメ」(天のカミ)の種より産まれたからです。

 

ソノカミノ   =その「カミ」(天の御祖)の息吹きから

アメツチヒラケ =天地が開けて

ナルカミノ   =現れた出でた「カミ」(大元の祖先)の

ミナカヌシヨリ =「ミナカヌシ」より

ハカリナキ   =計り知れない年月を経て

ヒトクサワカレ =人々が増えて分かれ行き、

タウトキモ   =尊き「キミ」(君)も生まれ、

ミコトモヒコモ =「ミコト」(命)も「ヒコ」(彦)も揃いました。

ナルミチオ   =そうして成り立った「ミチ」(祭りの道)に従って、

ヲサメオサムル =(君が)人々を教え、国を治める様になったのです。

 

ヒトノミハ   =人の「ミ」(身体・今の自分)は、

ヒツキノフユニ =日月の「フユ」(運行の積み重ね)によって

ヤシナワレ   =養われて行きますので、

メクミシラセン =この恵みを、知らせなければなりません。

ソノタメニ   =その為にこそ、

イテイルキツオ =日が出て入る「キツ」(東西)の名を

ヲシユナリ   =(一番最初に)教えるのです。

 

マサニキクヘシ =正に聞いておいて下さい。

フタカミノ   =「フタカミ」の伝えられた

ノアワウタニ =アの「アワウタ」に

クニオウミ   =「クニ」(国家)を生み出され、

ノアワウタニ =ワの「アワウタ」に

ネコエナル   =「ネコエ」(教育・産業)が成り立ちました。

 

ノチニヒヒメオ =後に最初の「ヒメ」(ヒルコヒメ)を

ウムトキニ   =御産みになる時に、

ヒルナレハナモ =「ヒル」(昼・捨て子)でしたので、名も

ヒルコヒメ   =「ヒルコヒメ」と名付けられました。

 ※「ヒルコヒメ」の名の由来に関しては、「ヒル」のヒが特殊文字の「ヒ」ですので、昼と解釈できますが、「ヒル」を(捨て子にした)と言う意味とも掛けている様に思えましたので、二つの意味にしました。

 

トシオコユレハ =(このヒルコヒメは)出産の予定年を超えての出産でしたので、

タラヂネノ   =両親の年齢が

ヨソフミソミノ =(夫は)42歳(妻が)33歳の時になってしまいました。

ヲヱクマモ   =(厄年の子は)「ヲヱ」(病や怪我)や「クマ」(心の悩み)が、

メハタヲハラニ =「メ」(女児)は「タ」(父)に、「ヲ」(男児)は「ラ」(母)に、

アタラシト   =当たらない様にと、

スツオカナサキ =捨て子にするのを「カナサキ」さんが、

オモエラク   =(知って)思いました。

コノハヤカレノ =我が子が「ハヤカレ」(早逝)をするという

イタミオモ   =悲しみをも、

チオヱシナスガ =(子の無き)母乳を妻の「ヱシナス」が(与えれば)

ワスレクサ   =忘れ草になるのではないか、と。

ヒラウヒロタノ =こうして、(ヒルコヒメを)拾い「ヒロタ」(廣田神社)

ミヤツクリ   =宮を造って

ソタテアクマテ =育て上げられました。その間に行われた

カナサキノ   =「カナサキ」さんの

ツネノヲシヱハ =常の教えは、

ミコトノリ   =(フタカミの)詔に従った事柄でした。

 

キツノハシメノ =「キツ」(東西)の方角の名を教えの初めとして、

アワウワヤ   =「アワウワ」(赤子の言葉の教育)をし、

テフチシホノメ =手を打って、「シホノメ」(赤子をあやしたりします。)

ウマレヒハ   =最初の誕生日(2才)になると、

カシミケソナエ =ご飯を炊いてお供えし、御食い初めの行事、

タチマヒヤ   =立ち舞いもするようになっています。

ミフユカミアケ =(3才)の冬には、童髪に「髪上げ」の儀式です。

ハツヒモチ   =(1月は)お正月のお餅を供え、

アワノウヤマヒ =天地のカミに感謝をします。

モモニヒナ   =(3月は)桃の節句の雛祭り、

アヤメニチマキ =(5月は)菖蒲の節句で粽を食べ、

タナハタヤ   =(7月は)七夕祭りをします。

ココクリイハヒ =(9月は)菊栗のお祝いで、

ヰトシフユ   =(5才)になると

ヲハハカマキル =男の子は「ハカマ」(袴)を着ます。

メハカツキ   =女の子は「カツキ」(被衣)を着て

コトハオナオス =言葉を童言葉から、大人の言葉に直します。

アワウタオ   =その為には、「アワウタ」を

ツネニヲシヱテ =毎日教えるのです。

 

アカハナマ   =男の子は天高く登る太陽の様に、家を照らしましょう。

イキヒニミウク =日の出の爽やかな風の様に、やる気十分に心を定めましょう。

フヌムエケ   =育ててくれた親に感謝して、自分もしっかり働きましょう。

ヘネメオコホノ =自分の考えや行いを天に恥じない様に、清く保ちましょう。

モトロソヨ   =問題点を明らかにして、仕事を改善して行きましょう。

ヲテレセヱツル =「あわうた」を広めて、国の復興に努めましょう。

スユンチリ   =寿命を全う出来る様に、健康維持に気をつけましょう。

シヰタラサヤワ =女の子は国にご奉仕できる後継を産み、明るい家庭を築きましょう。

 ※「アワウタ」の意味に関しては、「アワウタノアヤ」に書かれていた事を参考にしました。

 

アワノウタ   =「アワ」(男女の生き方)の「ウタ」を

カタカキウチテ =「カタ」(鼓)を担ぎ打って

ヒキウタフ   =(琴を)弾きながらの(伴奏を付けて)歌います。

オノツトコヱモ =そうすると自然に声も

アキラカニ   =大きくはっきりと発音できるようになり、

ヰクラムワタヲ =「ヰクラ」(五臓と心の五要素)「ムワタ」(六つの副臓器)「ヲ」(性器)を

ネコヱワケ   =「ネコヱ」(音声)を出しながら養生できるのです。

フソヨニカヨヒ =アの24音に続き、ワの24音へと戻って

ヨソヤコヱ   =合計で48音を声に出して発声します。

コレミノウチノ =こうする事で、身体の内の

メクリヨリ   =(血液の)廻りが良くなりますので、

ヤマイアラネハ =病気にもなりにくくなりますし、

ナガラエリ   =長生きの習慣にもなります。

スミヱノヲキナ =「スミヱノヲキナ」(カナサキさん)は、

コレオシル   =この事を知って、実行していました。

 

ワカヒメサトク =「ワカヒメ」は(幼いながらも)賢くて、

カナサキニ   =「カナサキ」さんに

キツサネノナノ =「キツサネ」(東西南北)の方角の名の

ユエオコフ   =由来を質問しました。

ヲキナノイワク =すると、「ヲキナ」(カナサキ)はこの様に説明しました。

 

ノイツル   =「ヒ」(日)の出る

カシラハヒカシ =「カシラ」(頭の位置)は、「ヒカシ」と言うのですよ。

タケノホル   =高い山に昇ると、

ミナミルミナミ =「ミナミル」(皆がよく見える)ので「ミナミ」と言います。

ヒノオツル   =日が堕ちる方角を

ニシハニシツム =「ニシ」と言うのは「ニシツム」(「ニ」(太陽)が沈む)からです。

 

ヨネトミツ   =また、「ヨネ」(米)と「ミツ」(水)を

カマニカシクハ =釜に炊ぐのは

ヒカシラヤ   =「ヒカシラ」(火頭・日頭)なので(「ヒガシ」と言い)

ニヱハナミナミ =煮え端(はな)を皆が見るから(「ミナミ」と言い)、

ニヱシツム   =煮えが鎮むときを(「ニシ」とも言います。)

ヱカヒトタヒノ =「ヱカ」(朔の祭りの日)に、月に一度のお供えして食べる

ミケハコレ   =「ミケ」(お供えのご飯)は、

         「コレ」(日の巡りや、火に感謝するものです。)

 

フルトシヨリ =ところが、昔は(月に)2度の「ミケ」(お米の食事)でしたが、

ツキミケノ   =月に3度の時代になると

ヒトハモヨロニ =人の寿命は100万年になり、

ツキムケノ   =月に6度の「ミケ」(お米の食事)の時代になると

ヒトハフソヨロ =人の寿命は20万年になり、

イマノヨハ   =今の世では、(毎日お米のご飯が食べられる様になると)

タタフヨロトシ =たったの2万年

イキナルル   =生きられるだけになりました。

ミケカサナレハ =「ミケ」(お米の食事)が重なると

ヨワヒナシ   =寿命が短くなって行くのです。

 

カレニワガキミ =その故に、我らが「キミ」(アマテルカミ)は、

ツキノミケ   =月に3度の「ミケ」(お米の食事)にされました。

ニガキハホナヤ =更に、苦い「ハホナ」(チオヨミクサ)を食べたり、

ミナミムキ   =南向きの御殿に住まわれ、

アサキオウケテ =朝の(太陽の暖かい)「キ」(気)を受けて

ナガラヱリ   =長生きをされています。

 

ミヤノウシロオ =宮の後ろを

キタトイフ   =「キタ」と言うのは、

ヨルハネルユヱ =夜は寝るからで、

キタハネソ   =「キタ」(気を足す)のを「ネ」(寝)というのです。

モシヒトキタリ =もし人が訪ねて来て

コトワケン   =話しをしようとした場合、

アワネハキタヨ =会わないのなら「キタ」(来た)というだけですが、

アフハヒテ   =会うのなら「ヒテ」(日の出)となり、

ミナミニコトオ =「ミナミ」(南の皆が見る大部屋)で議題についてを

ワキマエテ   =話し合った上で納得して、

オチツクハニシ =決着が付くのは「ニシ」(煮え鎮み、日が沈む頃)、

カエルキタ   =帰るのは「キタ」(来た方角へ、気を足す為に)。

ネヨリキタリテ =「ネ」(北)より来たりて

ネニカエル   =「ネ」(北・寝)に帰る。

 

キハハルワカハ =木には、春は若葉が芽吹き

ナツアオハ   =夏は青葉が繁ります。

アキニヱモミチ =秋は葉が紅く紅葉になり、

フユオチハ   =そして、冬は落ち葉になります。

コレモオナシク =これも同じく、

ネハキタニ   =「ネ」(寝・北)は「キタ」(気を足す)に、

キサスヒガシヤ =「キ」(気・東)が射すのは、「ヒガシ」(日頭)や、

サニサカヱ   =「サ」(政・南)に、「サカエ」(栄え)、

ツハミニツクル =「ツ」(着・西)は、実に「ツクル」(継ぐる)、

ヲハキミノ   =「ヲ」(央)は、君が(中央で)

クニヲサムレハ =国を治めるので、

キツヲサネ   =「キツヲサネ」と言います。

ヨモトナカナリ =四方位と中央の事です。

 

キハヒガシ   =「キ」(木)は「ヒガシ」(日頭・東)

ハナハハミナミ =「ハナハ」(花葉)は「ミナミ」(皆見・南)

コノミニシ   =「コノミ」(木の実)は「ニシ」(丹沈・西)、

ミオワケオフル =(木が)実を別け、新たに伸び育つのが

キノミユエ   =「キノミ」(木の実・君の子供達)ですから、

キミハヲメアフ =「キミ」(木の実・君)は、「ヲメ」(男女)が一つになる

アルシナリケリ =(仲立ちをする)「アルシ」(主人・仲人)でもあるのです。

 

サルタトフ   =すると、今度は「サルタヒコ」が質問しました。

ムネミナモト =「それでは、宇宙を形成した「ムネ」(アの要素)と「ミナモト」(ワの要素)、

キツタラモ   =「キツ」(東西)や「タラ」(父母)の間柄も、君が仲人なのでしょうか?

 

コヤネコタエテ =「アマノコヤネ」がそれに答えて話を続けました。

ヨロハタノ   =「「ヨロハタ」(全て造られた物)の

ムネミナモトハ =「ムネ」(アの要素)と「ミナモト」(ワの要素)は

ヨカミトヂ   =「ヨカ」(四季の恵み)を得て「ミトヂ」(形造られます)

ヨロハヌフカツ =「ヨロ」というのは「ヌフカツ」(杼の通った数・年数)で、

ハタハヲル   =「ハタ」は「ヲル」(織られた量・造られた量)です。

コロモノタテハ =また、衣にする布の「タテ」(縦糸)は、

カタチナリ   =「カタチ」(先祖からの伝統)を意味しています。

 

ヌキアヤオフモ =例えば、「ヌキアヤ」(抜き綾の布)を織ろうとした場合、

カミノムネ   =カミの「ムネ」(アの要素)、

ウルホスタテハ =つまり、全体を潤す「タテ」(縦糸)は

ヨヨノミチ   =代々の「ミチ」(憲法や法律)に当たります。

ホコノヲキテハ =また、「ホコ」(矛)で綻ばす「ヲキテ」(掟)というのは

ミメクミニ   =天の御恵みに対して

ヨコマホロホス =「ヨコマ」(横からの魔・横からの曲がり)を滅ぼす

ハタノヌキ   =「ハタ」(機織り)の「ヌキ」(横糸・曲がり抜き)に当たります。

 

ムネナモトノ =「ムネ」(アの要素)と「ミナモト」(ワの要素)の

タテヌキノ   =「タテ」(縦糸・法律)と「ヌキ」(横糸・施政)とに気を配り

ヤスヂタタシク =「ヤスヂ」(家筋・縦糸)を正しく

ミオヲサメ   =「ミ」(身・横糸)を修める事が大切になります。

ヤタミヲサムル =これが、「ヤタミ」(諸国民)が治まる

ヨヂノワサ   =「ヨヂ」(東西南北・四締)の「ワサ」(技法)なのです。

 

ホネハタノタネ =また、「ホネ」(骨)は「タ」(父親)の種により、

シシハラニ   =「シシ」(肉)は「ラ」(母親)によるものです。

ウマレヒツキノ =子が産まれ、日月が経過するにつれて

ウルホイニ   =肉体が潤い

ヒトナリソナフ =人となって、各部位が備わりますが、

ヨカヒヂノ   =これも「ヨカ」(四方の恵み)により「ヒヂ」(一人の子が育つ道)です。

カタオモチイテ =その「カタ」(父母の恵みの型式)を用いて

ミオヲサム   =(自分自身も)身を修めなければなりません。

メクミシラネハ =この恵みの原理を知らなければ、

カタチナシ   =「カタチ」(後を継いでくれる子)も育ちませんよ。

 

タラノソタツモ =「タ」(父からの骨)と「ラ」(母からの肉)が育ち、

ウルホイモ   =(嬰児の肉体が)潤ってくるのも、

テルキツサネノ =日の照る「キツサネ」(東西南北)の

ナカニイテ   =その「ナカ」(中央)に居て

キミノヲサムル =「キミ」(君)が治める

マツリコト   =「マツリコト」(国の政治)も同様で、

ヨロハタスヘテ =「ヨロハタ」(全ての織物・被造物・国家)は、全て

ヨヂオソナヘリ =通るべき「ヨヂ」(四つの路)を備えているのです。

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(以上)

 これにて「キツヨヂノアヤ」を終わりますが、タイトルと最後の文章にもありますように、「ヨヂ」という言葉をどう現代の言葉にしたら良いのか?これが、とっても難しかったです。この先何度も読むうちに、少しは良い解釈や訳語が見つかるのかも知れませんが、これこそが古典は何度も読み直す必要がある理由の様にも思いました。

 それでは、今回も最後までお付き合い下さいまして有難うございました。ではまた。

『ミカサフミ』序言(クニナツガノフ)

 今回からはいよいよ『ミカサフミ』に入ります。年度が変わって用事も多くて今回は少し遅れましたが、今日から始めたいと思います。\(^-^)/

 最初は『ミカサフミ』の序文です。先日の池田先生の講習会でのお話にもありましたが、『ホツマツタヱ』40アヤまで通してやってきましたので、序文が分かりやすく感じます。

 読み直して改めて感じたのは、『カクノミハタ』『ミカサフミ』『ホツマツタヱ』三書が成立した元となったのは、「ヤマトタケ」さんの「ノコシフミ」(遺し文)にあったのだという事です。そして、驚くべきはこの序文で述べられている時の「ヲオカシマ」さんの年齢は247歳「タタネコ」さんは234歳と、現代では考えられない様な年齢だと言うことです。世に残すべき仕事がある方の年齢は、飛躍的に伸びるのでしょうか?

 不思議がいっぱいで、まだまだ知られていない古代の日本を少しずつ読み解いて行きたいと思います。それでは、始めます。( ^ω^ )♪

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0-1(10788)

クニナツガノフ =「クニナツ」(ヲオカシマ)による『ミカサフミ』の序言

 

カミガヨノ   =上代の

トホコノミチモ =「ト」(トの教え・憲法)と「ホコ」(矛・武力制裁)で治めた道も

ヤヤサカフ   =かなり遠い時代の事となり、

カレオヲサムル =「カレ」(治世の退廃)を収めたのが

ヤマトタケ   =「ヤマトタケ」さんでした。ところが(残念な事に、病に倒れ)

カミニカエサノ =「カミ」(天界)に帰る際に

ノコシフミ   =「遺し文」を染めておかれました。

 

キミハミハタオ =(その遺し文に従い)景行天皇は「ミハタ」(カクノミハタ)を

ソメマセハ   =染められましたので、

トミミカサノ =「トミ」(クニナツ)も「ミカサノ

フミオソム   =フミ」(御笠文)を染めさせて頂きました。

 

ヲオタタネコモ =すると、「ヲオタタネコ」も同様に

ホツマフミ   =『ホツマフミ』(ホツマツタヱ)を

ソメササクレハ =染めて献上しました。すると景行天皇は、

ミクサノリ   =三つの文を合わせて『ミクサノリ』(三種典)とし、

ソナフタカラト =これを国に備えておくべき宝とします」

ミコトノリ   =詔をされるのでした。

 

シカレトカミヨ =しかしながら、上代と

ヰマノヨト   =今の世とでは

コトハタガエハ =言葉が違うので

ミチサカル   =「ミチ」(道理・教義)も隔たっています。

コレモロイヱノ =これは、諸々の家の

ツタエフミ   =「ツタエフミ」(家伝書)にもある事と思いますが、

イマノテニハニ =今の「テニハ」(助詞・文法)に

ナツラエテ   =合う様に考え直して、

カタチトワサト =「カタチ」(伝統)と「ワサ」(技術)と

ソノアヂオ   =その「アヂ」(意味)を

トクトヱサレハ =しっかりと理解しておかなければ、

ミチノクオ   =「ミチノク」(奥の深い意味)を外して、

ユキタガフカト =行き違えてしまうのではないかと、

オソルノミナリ =怖れるばかりです。

 

マキムキノ   =「マキムキ」(纒向)の

ヒシロノヰソム =「ヒシロ」(日代)の(景行)56年

トシツミヱ   =「ツミヱ」の年

ホツミハツヒニ =8月1日に

ミカサトミ   =「ミカサトミ」(御蓋のトミ)で

イセノカンヲミ =伊勢神宮の「カンヲミ」(神主)の

ヲオカシマ   =「ヲオカシマ」(クニナツ)が

フモヨソナトシ =247歳にて

ササクハナヲシ =「ハナヲシ」(花押)を捧げます。

 

 ここで、「ハナヲシ」を(花押)としましたのは、花押があったのかどうか?は分かりませんが、写本の通りにあった可能性もあると思ってそのままにしました。この『ミカサフミ』が纏められたのは、西暦の5世紀頃の事ですので、漢字が既にある程度伝わっていたとも考えられます。公用文書は「ヲシテ」文字を用いて書かれたにしても、漢字風の花押はあったのかも知れません。想像の域を出ない話ではあると思います。

 

ミカサフミ   =『ミカサフミ』(御蓋文)の

ササケタマフオ =奉呈に際して

ミワノトミ   =「ミワノトミ」(ヲオタタネコ殿)に

ミチホメイワク =祝辞を頂きました。

 

         (ヲオタタネコの祝辞)

アメツチモ   =「天地も

ヒラケテカミモ =開けて来た時に、「カミ」(アメミヲヤ)が

メヲモワケ   =「メヲ」(冷・温)も分けられ、

ヒモツキモナリ =次には、日も月も現れました。

コヨノホシ   =天には「コヨノホシ」(命と天の巡りを司る9つの星)

アメトコタチト =つまり、「アメトコタチ」のカミと

ワノソヒモ   =「ワノソヒ」(地上の生命体を司る11の星)

アシガヒヒコヂ =つまり、「アシガヒヒコヂ」のカミも見守られます。

トコタチノ   =「クニトコタチ」から(クニサツチ、トヨクンヌまで)の

ミヨハミホカミ =三世は「ミホカミ」(三穂のカミ)で(独りカミ)、

フタハシラ   =(次の4代からは)「フタハシラ」(二柱の夫婦カミ)で、

マツルトホコノ =(7代のフタカミからは)「ト・ホコ」(トのヲシテと矛)を祀る

ミチアレト   =「ミチ」(国家の制度)になりましたが、

アマテルカミノ =それに、「アマテルカミ」が

ヤタカガミ   =「ヤタカガミ」(八咫鏡)を

ツクリミクサノ =作って足され、「ミクサノ

カンタカラ   =カンタカラ」(三種の神宝)となりました。

 

アメノミマコニ =その後、「アマテルカミ」のお孫の「ニニキネ」さんに

オサツケ   =「ト」(トのヲシテ)を授けて

ヤマトヲサムル =「ヤマト」を治めて貰う事になりましたが、

ミカガミハ   =「カガミ」(八咫鏡)は

コヤネニサツク =「アマノコヤネ」に授けて(力を合わせるのが)

カミノムネ   =「アマテルカミ」のご意向でした。

ホコノミナモト =「ホコ」(矛)の「ミナモト」(最初に授けた先)は

ヲコノカミ   =「ヲコノカミ」(クシヒコさん)でした。

 

シカレトミチモ =しかしながら、「ミチ」(国家の制度)も

モロイヱニ   =諸々の家に(それぞれの考えがあり)

ツカサタガエハ =司が違えば(異なってくる様に)

ホツマフミ   =『ホツマフミ』(ホツマツタヱ)も

アラワストキニ =書き記(しる)す時に(違いが生じて来ています。)

 

アツタカミ   =そこで、「アツタカミ」(ヤマトタケ)が(亡くなる前に)

ツケテキミニハ =この状況を告げて、君には

カクミハタ   =「カクミハタ」の(新たな編集に)

ヲサセタマヘハ =取り組む様に願われたので、

カガミトミ   =「カガミトミ」(ヲオカシマ)も

フモトヤシロノ =「フモトヤシロノ

フミササク   =フミ」(御笠文)を捧げる次第になりました。

 

ワレモアクレハ =私も奉呈しますと、

ミコトノリ   =(景行天皇から)詔をいただきました。

ミクサノミチノ =つまり、「(ヤマトタケの願いが叶い)三種の道が

ソナワリテ   =備わって、(これから先の国の安泰を思うと)

サチヱルイマト =今やっと、幸福な気持ちになりました。」と

ノタマエハ   =仰いましたのです。

 

オノオノミヲヤ =(こうして、やっと三種の道が整いましたので)各々が御祖を

マツルヘシ   =(大切に)御祀りして頂きたいと思います。

ホスエサカエル =子々孫々に栄える

ソノミチハ   =その道を伝えるのは

ミカサフミナリ =この『ミカサフミ』(御笠文)であります。

アマテラス   =「アマテラス

カミヨリサツク =カミ」(天照大神)より授かりました、

ミチノクノ   =「ミチノクノ

フミウヤマイテ =フミ」(カクノミハタ)を敬いつつ、

トモニササケツ =(私も『ホツマツタヱ』を)共に捧げるものであります。

 

ヲオミワノ   =「ヲオミワ」(大三輪)の

タタネコガトシ =「ヲオタタネコ」の歳、

フモミソヨ   =234歳の時に

ツツシミノヘテ =(祝辞を)謹み述べて

ソエルハナヲシ =ここに「ハナヲシ」(花押)を添えます。

ーーーーーーーーー

(以上)

  『ミカサフミ』の序言では、「クニナツ」(ヲオカシマ)さんの後に「スエトシ」(ヲオタタネコ)さんが祝辞を述べておられます。皇室の『カクノミハタ』と共にお二人が、それぞれに『ミカサフミ』『ホツマツタヱ』を献上された事が分かりますね。この『ミカサフミ』をよく読んで、後々の世までも先祖を敬って頂きたいとの「ヲオタタネコ」さんのお気持ちが伝わってきます。

 残念なことに、『ミカサフミ』の方は8アヤまでしか見つかってはいないのですが、発見された文献をしっかりと読んで、深い意味を汲み取って行きたいと思います。ではまた。

 

「ヒルコヒメ」の名前の意味について:

 こんにちは。( ◠‿◠ )♪ 桜もそろそろ満開で、今日この頃は暖かい良い日になってきましたね♪とは言え、台湾では大きな地震があったようで災害の心配はいつまでも続きますが、とりあえずは春の陽気に、気持ちを休ませたいと思います。桜の季節の花見の習慣や、お休みは「ヲシテ文献」を読む様になってから気づいたのですが、何と縄文時代からずっと続いていた様ですね!!(◎_◎;)「アソヒ」という言葉の中に、種の芽吹きの為に、意識的に遊ぶのだという意味が込められている様に感じます。

 さて、今日のお題は、「ヒルコヒメ」の名前の意味についてという事にしました。「ヒルコヒメ」は昼に生まれたから「ヒルコ」と名付けられたとばかり思っていましたところ、そればかりではない事に気づいたからです。ヒルナレハナモ ヒルコヒメ」(昼に産まれたからヒルコ)だけでは、やはり一般的過ぎておかしいですよね!『ミカサフミ』の「キツヨヂノアヤ」に「ヒルコヒメ」の命名の由来について書かれている箇所がありますので、その少し前から書き出してみます。

ヒルコヒメ

ミ1-12(10886)

マサニキクヘシ =正に聞いておいて下さい。

フタカミノ   =「フタカミ」の伝えられた

アノアワウタニ =アの「アワウタ」に

クニオウミ   =「クニ」(国家)を生み出され、

ワノアワウタニ =ワの「アワウタ」に

ネコエナル   =「ネコエ」(教育・産業)が成り立ちました。

 

ノチニヒヒメオ =後に最初の「ヒメ」(ヒルコヒメ)を

ウムトキニ   =御産みになる時に、

ヒルナレハナモ =「ヒル」(昼)でしたので、名も

ヒルコヒメ   =「ヒルコヒメ」と名付けられました。

 

トシオコユレハ =(このヒルコヒメは)年をとってから産まれた子でしたので、

タラヂネノ   =両親の年齢が

ヨソフミソミノ =(夫は)42歳と(妻が)33歳の時でした。

ヲヱクマモ   =「ヲヱ」(病や怪我)や「クマ」(心の悩み)が、

メハタヲハラニ =「メ」(女児)は「タ」(父)に、「ヲ」(男児)は「ラ」(母)に、

アタラシト   =当たらない様にと、

スツオカナサキ =捨て子にするのを「カナサキ」さんが、

オモエラク   =(聞いて)思いました。

コノハヤカレノ =我が子の「ハヤカレ」(早逝)の

イタミオモ   =痛みも

チオヱシナスガ =(子の無き)乳を妻の「ヱシナス」が(与えれば)

ワスレクサ   =忘れ草になるのではないか、と。

ヒラウヒロタノ =こうして、(ヒルコヒメを)拾い「ヒロタ」(廣田神社)の

ミヤツクリ   =宮を造って

ソタテアクマテ =育て上げられました。その間に行われた

カナサキノ   =「カナサキ」さんの

ツネノヲシヱハ =常の教えは、

ミコトノリ   =(フタカミの)詔に従った事柄でした。

 

 「ヒル」という意味を動詞として調べてみますと、現代と縄文時代とは意味も異なるとは思いますが、古語辞典で調べる限りは次の様な意味があると思います。

ひる 【干る・乾る】①かわく。②(潮が)引く。

ひ・る 【放る・痢る】体外に出す。排泄(はいせつ)する。垂れる。

ひる 【簸る】(穀物に混じるくずやごみを取り除くために)箕(み)でふるいわける

 この中で、「ヒルなれば」の言葉に当てはまる意味を探してみると、「干る」という事であれば、(かわく)とは土地が潤っていなくて作物が実らない状態であったことを言っている様でもあります。

 また、「放る」や「簸る」であれば、(不要な子を外に出す)という事で、捨て子にしたと言う事を意味している様に思えます

 と言う事で、前後の文脈から考え合わせますと、やはり「ヒルナレハナモ ヒルコヒメ」とは、(昼だったから ヒルコヒメ)と名付けたと言うだけではなくて、(捨て子にしたから ヒルコヒメ)と言っていた様に思いました。随分とうっかりした話ですが、今頃になって「ヒルコヒメ」の意味に気づいたのではないか?と思います。(⌒-⌒; )

 日々、この様な小さな気づきの連続ですので、またブログに書かせて頂きますね。ではまた。

 

「クニナツガノフ」(御笠文の奉呈文)

 『ホツマツタヱ』を終えてから、次は何処へ行くのか?考えているうちにも、『ミカサフミ』の最初からという事でしたので、先ずは「奉呈文」を読んでみました。「ヲシテ文献」も毎日少しずつでも読み続ける事が大切で、繰り返し読み直す事によって、次第に文章の流れが分かってくるものだと思います。(^^)

 ですから、「奉呈文」も最初に書かれている序文ではありますが、全体が分からないと意外に難しいので、読み始めた頃は本当に分かりませんでした。私も全体を読み終えて、やっと何とか分かる様になったところです。(⌒-⌒; )これからも、怪しいながらも少しずつ理解して行きたいと思っています。

 ただ、今回は『ミカサフミ』の奉呈文を読み直して気づいたこともあって、「ミクサノミチ」(『カクノミハタ』・『ミカサフミ』・『ホツマツタヱ』)が揃って書かれる事になった経緯(いきさつ)については、「アツタノカミ」(ヤマトタケさん)の「ツゲ」(告げ)があったと書かれていました。これは『ホツマツタヱ』の何処に書かれていたのかな?と思います。考えられるのは次の箇所です。

ホ40-15(10454)

      コイネガワクハ

イツノヒカ ミコトカエサン

ノニフシテ タレトカタラン

 ここの箇所は、私もよく分かりませんでしたので、ここに「ヤマトタケ」さんの景行天皇への訴えがあったのか?とも思います。また読み込むうちに気づけるかもしれません。(^人^)というわけで、『ミカサフミ』の奉呈文の対訳をしてみたいと思います。

 

ミ0-1(10788)

クニナツガノフ =「クニナツ」(ヲオカシマ)による序文

 

カミガヨノ   =上代の

ホコノミチモ =「」(トの教え・憲法)と「ホコ」(矛・武力制裁)で治めた道も

ヤヤサカフ   =かなり遠くなり、

カレオヲサムル =その「カレ」(治世の退廃)を治めたのが

ヤマトタケ   =「ヤマトタケ」さんでしたが、(残念な事に、病に倒れ)

カミニカエサノ =「カミ」(天界)に帰る際に

ノコシフミ   =「遺し文」を染めておかれました。

 

キミハミハタオ =(その遺し文に従い)景行天皇は「ミハタ」(カクノミハタ)を

ソメマセハ   =染められましたので、

トミモミカサノ =「トミ」(クニナツ)も「ミカサノ

フミオソム   =フミ」(御笠文)を染めさせて頂きました。

 

ヲオタタネコモ =すると、「ヲオタタネコ」も同様に

ホツマフミ   =『ホツマフミ』(ホツマツタヱ)を

ソメササクレハ =染めて献上しましたので、

ミクサノリ   =三つの文を合わせて『ミクサノリ』(三種典)となりました。

ソナフタカラト =(景行天皇は)「備えておくべき宝とします」と

ミコトノリ   =詔をされるのでした。

 

シカレトカミヨ =しかしながら、上代と

ヰマノヨト   =今の世とでは

コトハタガエハ =「コトハ」(言葉)が違うので

ミチサカル   =「ミチ」(道理・教義)も隔たって来ています。

コレモロイヱノ =これは、諸々の家の

ツタエフミ   =「ツタエフミ」(家伝書)にありがちな事ですが、

イマノテニハニ =今の「テニハ」(助詞・文法)に

ナツラエテ   =合う様に考え直して、

カタチトワサト =「カタチ」(文型)と「ワサ」(技法)と

ソノアヂオ   =その「アヂ」(意味)を

トクトヱサレハ =しっかりと理解しなければ、

ミチノクオ   =「ミチノク」(奥の深い意味)を外して、

ユキタガフカト =行き違えてしまうのではないかと、

オソルノミナリ =怖れるばかりです。

 

マキムキノ   =「マキムキ」(纒向)の

ヒシロノヰソム =「ヒシロ」(日代)の(景行)56年

トシツミヱ   =「ツミヱ」の年

ホツミハツヒニ =8月1日

ミカサトミ   =「ミカサトミ」(御蓋のトミ)で

イセノカンヲミ =伊勢神宮の「カンヲミ」(神主)の

ヲオカシマ   =「ヲオカシマ」(クニナツ)が

フモヨソナトシ =247歳にて

ササクハナヲシ =「ハナヲシ」(花押)を捧げます。

 

(ヲオタタネコの祝辞)

ミカサフミ   =「ミカサフミ」(御蓋文)の

ササケタマフオ =奉呈に際して

ミワノトミ   =「ミワノトミ」(ヲオタタネコ)が

ミチホメイワク =祝辞を申し上げます。

 

アメツチモ   =「天地も

ヒラケテカミモ =開けて来た時に、「カミ」(アメミヲヤ)が

メヲモワケ   =「メヲ」(冷・温)も分けられ、

ヒモツキモナリ =日も月も現れました。

ヨノホシ   =天には「コヨノホシ」(命と天の巡りを司る9つの星)

アメトコタチト =つまり、「アメトコタチ」のカミと

ワノソヒ   =「ワノソヒ」(地上の生命体を司る11の星)

アシガヒヒコヂ =「アシガヒヒコヂ」のカミも見守って下さる様になりました。

 

トコタチノ   =「クニトコタチ」から(クニサツチ、トヨクンヌまで)の

ミヨハミホカミ =三世は「ミホカミ」(三穂のカミ・三柱の独りカミ)、

フタハシラ   =次の世からは、「フタハシラ」(二柱の夫婦カミ)、

マツルトホコノ =(フタカミからは)「ト・ホコ」(トのヲシテと矛)を祀る

ミチアレト   =「ミチ」(国家の制度)になりましたが、

アマテルカミノ =(それに加えて、)「アマテルカミ」が

ヤタカガミ   =「ヤタカガミ」(八咫鏡)を

ツクリミクサノ =作られ、「ミクサノ

カンタカラ   =カンタカラ」(三種の神宝)となりました。

 

アメノミマコニ =その後、「アマテルカミ」のお孫(ニニキネさん)に

オサツケ   =「ト」(トのヲシテ)を授けて

ヤマトヲサムル =「ヤマト」を治めて貰う事になりましたが、

ミカガミハ   =「カガミ」(八咫鏡)は(別けて)

コヤネニサツク =「アマノコヤネ」に授け(力を合わせるのが)

カミノムネ   =「アマテルカミ」のご意向でした。

ホコノミナモト =「ホコ」(矛)の「ミナモト」(授けた先)は

ヲコノカミ   =「ヲコノカミ」(クシヒコ)で、こうして国の体制が整いました。

 

シカレトミチモ =しかしながら、「ミチ」(家宝の書物)も

モロイヱニ   =諸々の家に(それぞれの考えがあり)

ツカサタガエハ =司が違えば(家風も異なってくる様に)

ホツマフミ   =『ホツマフミ』(ホツマツタヱ)も

アラワストキニ =書き記(しる)す際に、(違いが生じて来ていました。)

 

アツタカミ   =そこで、「アツタカミ」(ヤマトタケ)が(亡くなる前に)

ツケテキミニハ =この状況を告げて、君には

カクミハタ   =「カクミハタ」の(新たな編集に)

ヲサセタマヘハ =取り組む様に願われると、

カガミトミ   =「カガミトミ」(ヲオカシマさん)も

フモトヤシロノ =「フモトヤシロノ

フミササク   =フミ」(ミカサフミ)を捧げられました。

 

ワレモアクレハ =私も(ホツマツタヱを)奉呈しますと、

ミコトノリ   =(景行天皇からの)詔をいただきました。

ミクサノミチノ =「(ヤマトタケの願いにより)三種の道が

ソナワリテ   =備わって、(これからの国の安泰を思うと)

サチヱルイマト =今やっと、幸福な気持ちになりました。」と

ノタマエハ   =仰いました。

 

オノオノミヲヤ =(この様に大恩を受けていますので)各々が御祖を

マツルヘシ   =(大切に)御祀りして下さい。

ホスエサカエル =子々孫々に栄える

ソノミチハ   =その道を伝えるのは

ミカサフミナリ =この『ミカサフミ』(御笠文)であります。

アマテラス   =私は、「アマテラス

カミヨリサツク =カミ」(天照大神)より授かりました、

ミチノクノ   =「ミチノクノ

フミウヤマイテ =フミ」(カクノミハタ)を敬って

トモニササケツ =(『ホツマツタヱ』を)共に捧げるものであります。

 

ヲオミワノ   =「ヲオミワ」(大三輪)の

タタネコガトシ =「ヲオタタネコ」の歳

フモミソヨ   =234歳、

ツツシミノヘテ =謹んで(祝辞を)述べて

ソエルハナヲシ =「ハナヲシ」(花押)を添えます。

 

 以上、『ミカサフミ』の奉呈文を対訳してみましたが、最後の「ハナヲシ」というものが、現在の残る「花押」であるのかどうか?という事については、疑問が残ります。因みに、『ホツマツタヱ』の奉呈文に「ハナヲシ」(花押)の書かれている箇所をアップしてみました。

クニナヅの花押

 最後に、「クニナヅ」と「ハナヲシ」(花押)が書かれているのが分かります。後の時代の創作であったという疑いもありますが、現在のところの私は、この様な「ハナヲシ」であったように思っています。また、添える文章そのものが「ハナヲシ」であった事も考えられますが、やはり最後に何かの印を添えた様に思えます。「ヲシテ文献」を代々伝える大切な役割をしている人達が、創作を加えることも考えにくいので、写本の通りの「花押」があったように感じているところです。また、ご意見をお聞かせくだされば幸いです。ではまた。

 

「オオヒコ」(大彦)の孫の「イワカ」(磐鹿)が御祭神の神社を探して:

 

 本日は、「オオヒコ」(大彦)の孫の「イワカ」(磐鹿)が、御祭神として祭られている神社を探したと言うお話をさせて頂きます。

 

 40アヤ(後半)の最後の話を読んで以来、私は「オオヒコ」(大彦)の孫の「イワカ」(磐鹿)獅子舞を広めた功績の大きさを考える様になりました。飛騨神岡の「大津神社」での盛大な獅子舞を見ると、何故に「イワカ」の名前が御祭神に残ってないのだろう?と言う思いが募ったからです。

そこで、何処かの神社に「イワカ」という名の御祭神が残っているのではないか?と検索してみました。すると、早速ありました!\(^-^)/千葉県南房総市高家神社」(たかべじんじゃ)と出て来ます。

https://takabejinja.com/s/goyuisho.html

高家神社

御祭神は、磐鹿六雁命」(いわか・むつかりのみこと)(尊称:「高倍神」たかべのかみ)

 

この神社の御由緒は、次の様に書かれていました。

ーーーーーー

日本書紀」の第12代景行天皇53年冬10月の条に祭神・磐鹿六雁命について記されていますが、延暦8年(789)に磐鹿六雁命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文」(うじぶみ)にさらに詳細に記述されています。

 景行天皇が皇子日本武尊(やまとたける)の東国平定の事績を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦つるをとり海に入れた所堅魚(かつお)を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(しろうむぎ)(=はまぐり)がとれました。磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を膾(なます)にして差し上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜りました。

 この功により若狭の国、安房の国の長と定められ、以後代々子孫は膳(かしわで)の職を継ぎ、もし世継ぎのないときは、天皇の皇子を継がせ、他の氏を交えず、皇室の食事を司るよう賜りました。
 また、大いなる瓶(かめ=べ)に例え、高倍さまとして宮中醤院(ひしおつかさ)で醤油醸造・調味料の神として祀られています。醤には、野菜を発酵させた草醤(くさびしお)、穀物を発酵させた穀醤(こくびしお)、魚などを発酵させた肉醤(にくびしお)があった。今でいう漬物・味噌醤油・塩辛の三種だが、これらは日本料理の基礎をなすものであり、磐鹿六雁命が料理の祖神とされる由縁です。

ーーーーーーー

 

 成る程成る程!これは、「オホヒコノマコ イワカナリ」の前の箇所で、「ムツカリ」が「ウムギ」(蛤)を膾(なます)にして景行天皇に差し出し、「カシハトモベ」の役職を賜った事が由緒となっている神社だと言う事になりますね。

 

 その「ムツカリ」と「イワカ」が一緒になって、(いわかむつかり)「磐鹿六雁命」という御祭神の名になって残っている様です。しかしながら、これは『日本書紀』を元にした御祭神名で、『ホツマツタヱ』を正確に読み取ると、「いわか」と「むつかり」は別人物に思えます。『ホツマツタヱ』の記述を見てみましょう。

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ホ40-89(10748)

ミフネカツサエ =(景行天皇行幸の)御船は上総へと向かい

アホノハマ   =「アホ」(安房)の浜に到着しました。

ミサコヱハムオ =そこで、「ミサコ」(鶚)が餌を食べるの見られて

タミニトフ   =(何を食べているのですかと)タミに問われると、

アレハウムギト =「あれは「ウムギ」(蛤)を食べているのです」と答えました。

 

シツカハム   =(その会話を聞いて)「「シツ」(下民)の食べ物ですが、

ナマスモヨシト =「ナマス」(刺身)にしても美味しいのですよ」と言って、

ムツカリガ   =(従者の)「ムツカリ」が、

カマタスキシテ =「カマタスキ」(蒲襷)をして

トルウムギ   =「ウムギ」(蛤)を捕ってきてくれました。

ナマスニナシテ =早速「ナマス」(刺身)にして

ススムレハ   =お勧めすると(景行天皇は、その美味しさに喜ばれて)

カシハトモヘト =「カシハトモヘ」(膳部の伴部)と

ナオタマフ   =(ムツカリに)褒め名を賜りました。

ーーーーーー(ここから話が変わる)ーーーーー

オホヒコノマコ =(景行天皇の付き人として)「オホヒコ」の孫の

イワカナリ   =「イワカ」がお供をしていました。

カシマカクラノ =(イワカが)「カシマカクラ」(鹿島神楽)の

シシマイオ   =「シシマイ」(獅子舞)についてを

トエハトキヒコ =尋ねますと、「カトリ・トキヒコ」が答えました。

コレムカシ   =「これは昔のことですが、

イヨニワタリテ =「イヨ」(伊予)に渡って

シシハムオ   =「シシ」(猪)が(農作物を)食べ荒らしていたのを

ツチキミトリテ =「ツチキミ」(サルタヒコ)が捕獲した事がありました。

タテマツル   =(その様子を舞にして)君の前に奉ったのです。

キミタノシミノ =それ以来、君も楽しみの

カクラシシ   =神楽獅子となりました。

ヤヨロカシマニ =(真榊暦で)何万年もの間、「カシマ」(鹿島)地方に

アルカタチ   =受け継がれている伝統芸能ですが、

サワリナカレト =人々の暮らしに障害がない様にとの祈りを込めて

モテアソフ   =獅子を弄ぶのが特徴です。

サルタノカミノ =これは、「サルタノカミ」(禍を去って助けるカミ)の

ナニシアフ   =名に因んでいて、有名な神楽です。」

ーーーーーーー

 この箇所の前半は、後に「膳大伴部」(かしわでのおおともべ)となった「ムツカリ」の事で、後半は、「カシマカクラ」(鹿島神楽)の獅子舞を質問した「イワカ」の事になります。ですから、「いわか」と「むつかり」は別人で、(いわか・むつかり)「磐鹿六雁命」という『日本書紀』は、ヲシテ文献の読み間違いをしているのではないか?と思えます。

 

 因みに、『定本・ホツマツタヱ』の三書比較で、どの様に間違っているのかを示してみたいと思います。

 

(『定本・ホツマツタヱ』による『ホツマツタヱ』と『日本書紀』の違い)

「いわか」の移動

 この様に、日本書紀ホツマツタヱの記述を漢字に置き換えたものでありますので、「ヲシテ」の解釈の際の誤謬(ごびゅう)や意図的な改竄(かいざん)などによって、話が違って来ています。この場合は、「いわか」という重要な御祭神の名が、「むつかり」という御祭神の名に一体となって紛れてしまった例の様です。

 

 とにかく私としては、「いわか」の名が見つかってホッとしました!\(^-^)/また、「むつかり」を御祭神とする高家神社」(たかべじんじゃ)についても、とても興味深く思いました。「高家神社」(たかべじんじゃ)は、”日本唯一料理の神”とされ、景行天皇に見出されて以来、ずっと皇室の膳部として祀られているのですから意味深いですよね!

 

 夢に出て来た「ヤマトタケ」さんは、御自身のことを振り返り、「シツ」(下民)だと言っていました。そんな時に「ムツカリ」が、「シツカハム ナマスモヨシ」(下民の食べ方ですが、刺身でも美味しいですよ♪」と言って、景行天皇に勧めてくれました。「ヤマトタケ」の事を思って止まない景行天皇にとっては、その事にとても心が和んで、嬉しかったのでしょうね。優しい心の方が「カミ」として崇められる日本は、やはり素晴らしいと、私は思いました。

 

 と言う事で、今日は「イワカ」という御祭神を「高家神社」に見つけたというお話でした。ではまた。


takabejinja.com

99回京都「ヲシテ講習会」のご報告

 第99回京都「ヲシテ講習会」が、2024年の3月16日(土曜日)に京都市国際交流会館で開催されました。私は今月も自宅からzoomでの受講で、受けさせて頂きました。\(^ω^)/仕事の都合で日程が合わなくなっても、受講できる時代になって有り難いと思っています♪

 さて今回は、記念すべき京都での99回目(ツクモの講習会でもあり、『ホツマツタヱ40アヤの(後半)、最終アヤの講習会にもなっています。そして、3月は年度末でもあり、私の「JUGEM」のブログも『ホツマツタヱ』の40アヤまでを終了した時に、メモリー容量がいっぱいで終了になりました。本当にタイミング良く進んでいる時は、何だか神様に導かれている様な気がします。( ^∀^)♪ 

 池田先生も、記念すべき回になったと言う事か、今月は「ヲシテ文献」の発見者でもある、松本善之助先生の書かれた掛け軸を持って来られました。「いのち」と書かれた文字には、野菜の絵も描かれていますね。ホツマツタヱの最後の箇所には、流石に奥深い意味が込められていて、池田先生はその意味もわかって来たと言う事で、「いのち」の言葉を選ばれたようですが、やはり最後を飾る言葉に相応しいと思えますね!

 

(「いのち」:松本善之助先生の書かれた掛け軸)

 

 午後の1時になって時間となり、講習会が始まりました。今月の初めの話は、12代の「ヲシロワケ」(景行天皇)の次の13代ワカタリヒコ」(成務天皇は、どこで政務をとらたか?という事でした。

 その場所は、奈良から外れた「高穴穂の宮」景行天皇が亡くなられた琵琶湖畔が都となりました。どうも38代の天智天皇のときもそうでしたが、大陸からの脅威が問題となる時代には、近江が対大陸の前線基地となるようですね!

 

(13代「ワカタリヒコ」(成務天皇)の都は、高穴穂の宮)

 

(40アヤ「アツタカミ ヨヲイナムアヤ」(後半)のお話)

 

 そして、40アヤ(後半)の話が始まりました。・・・話内容の話は、いつもの如くに以前に書かせて頂きましたので省かせて頂きますが、今回の特記事項は池田先生から、合田さんの書かれた論考が、紹介されたのでした!\(^-^)/ 合田さんは、景行天皇の夢に出て来た「ヤマトタケ」さんの言葉、今回のキーワードにもなると思いますが、うらやみて カリの 親子ぞの部分を分析して解釈し、池田先生にメールを送られていたのですね。

 

 運良く私も、合田さんとはメールのやり取りをさせて頂いていましたので、この分析を先に読ませて頂いていました。いつもながらの鋭い分析だと、思いましたよ。♪

 

(合田静江さんの「うらやみて カリの親子ぞ」の解釈のご紹介)

 

勝手ながら、合田さんの解釈を少し転記させて頂きますね。( ^∀^)♪

ーーーーーー

「うらやみて カリの 親子ぞ」の解釈
ヤマトタケさんのミタマが ヲシロワケさんに コトをあきらかにして、
遺された人々の悲しみをやわらげるために告げたユメの言葉です。
ヤマトタケさんは 「ソサノヲのミタマは、生前は兄アマテルカミを羨み、死後はニニキネさんを羨んだ」と言っています。
それはもし転生が叶うならば、ニニキネさんのような立派なココロザシでもう一度やり直したいとソサノヲが強く願ったからです。
ヤマトタケとして生きていた時には解らなかったもろもろが、アノヨに行ってすべてわかった、(表も裏もわかった)
 
うらやみて、について
ヤマトタケがニニキネを尊敬こそすれ、羨むとは!という見方(山脇さん)もあるかもしれませんが、ウラヤミテ の言葉には 「ウラ や  ミて 」 の意味が重なっていると思います。
(ソサノヲが) ウラや ミて だった と ヤマトタケさんが言っているのです。
 
ウラの意味
①表、裏の ウラ
 アの世に行ってソサノヲは自分の言動が相手にはどのように映っていたかが解った。
【一枚の紙にも裏と表があるように、自分と相手、する者とされる者、同じ事柄で相反する立場がある】
 ソサノヲはあの世に帰って初めてこの世で自分のしたことがどういう事だったか実感できた。 どれだけ心配をかけたか、どれだけ迷惑をかけたか、どれだけ自分勝手でわがままであったか、 全て相手の身になって(ウラや 見て)真相がわかり、やり直せるものなら、と反省し、後悔する。 
 → → → それに比べてなんとニニキネの立派なこと!ああ羨ましい、あんな生き方ができたら、やり直せたら、、(つづく)
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 まだここから続きがありますが、この様にかなり詳しい分析をされていました!分析力が、素晴らしいですね。♪( ◠‿◠ ) 池田先生も、ここの部分は解釈がとても難しい箇所ですので、この分析と解釈に、かなりの感動をされていた様でしたよ!\(^-^)/

 

 

 ただ、私の解釈はと言えば、前の「JUGEMブログ」に書かせて頂いた様に、少しは違うところもありますが、解釈は個人により絶対に違って来ますので、幾つもの他の方の解釈を聞かせて頂くのが知識と見方が豊かになるので、良いのだと思います。皆様もご意見がありましたら、是非聞かせて下さいね♪( ^ω^ )

 

 そして、今回の40アヤ(後半)に出てくる「ウタ」のやり取りに関しては、『ホツマツタヱ』の全巻を暗唱暗記された、あのBebeさんからも、それぞれの「ウタ」の関係性について、具体的にいくつかの部分を画像に示したメールが池田先生の元に届いていて、ご紹介して下さいました。Bebeさんの分析は、本当にいつも鋭いと思いました!!(◎_◎;)

 

(ミヤツヒメの「タカヒカル」のウタが、ヤマトタケの「ワガヒカル」へ続く箇所)

 

 そして最後に、ナント!私が池田先生に出したメールのご紹介までして下さいました。内容は、飛騨神岡の「大津神社」獅子舞の事でした。今から10年前に「大津神社」の20年に一度の大祭があると新聞記事で知って、とにかく凄く大規模な大祭だと言う事で、5月の6日ゴールデンウィークの真っ只中に、見に行ったのでした。

 そこで驚いたのが、渡御の大行列と獅子舞の盛大さでした!!(◎_◎;) 今回は40アヤを読み直して、その理由となることが、最後の箇所に書かれていたと思ったのです。

 

40-90(10755)

      オホヒコノマコ

イワカナリ カシマカクラノ

シシマイオ トエハトキヒコ

 

(私が池田先生に書いた、メールの文章をご紹介の箇所)

 

 因みに、私が池田先生に書いたメールの箇所は、以下の通りです。

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「オオヒコ」の孫「イワカ」と獅子舞の関係について

 40アヤの最後の話として、獅子舞の話が出て来ますが、この箇所を読んで気づく事がありました。丁度10年前に見に行った飛騨神岡の「大津神社」の20年に一度の大祭の模様のことです。2014年5月6日、の「大津神社」は5日と6日の2日間合わせて飛騨地域一円から神社約130社、総勢3500人の氏子が参集しました。

 本当に、街中がお祭り行列で埋め尽くされ、どんなに大きな徳のある「カミ」が居られたのか?と思っていたのですが、後に調べたら「大彦命」(おおひこのみこと)という事で、「オオヒコ」さんだったのですね。中でも一際目についたのは、獅子舞組の多さで「カシマカグラノ シシマイ」が、この飛騨の地で、どうしてこれ程までに盛大に行われているのか?も、ずっと不思議に思っていました。

 それが今回の読み直しで、40アヤの最後のお話に、「オホヒコノマコ イワカナリ」と書かれていて、(鹿島神楽の獅子舞の事を尋ねた)とありますので、大彦の子孫の「イワカ」さんは、景行天皇のお供で行かれて、大変に獅子舞に興味を持たれたのでしょうね!この事が元で、飛騨神岡の「大津神社」の獅子舞大会に繋がっているのかと思うと、10年来の疑問が解けた様に思いました。

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 「イワカ」か?「イワカナリ」か?については、池田先生は「イワカナリ」だと言われていましたが、この方(かた)は御祭神の名には残っていないのが残念でした。

 

 最後の質問のコーナーになりますと、私は予め考えて無かった事に気づいて、その場で一つ質問を考えました。・・ところが、咄嗟に考えた質問は的を外していて、これまた残念!(⌒-⌒; )

 

 

 聞きたかったのは、「ナナクサノ ミアエニウタノ ヒカスヘル」という箇所の解釈で、「ウタノヒカス」(ウタの日数)とは、ウタの会に出席する日数の事ではないですか?とうい事を聞きたかったのでした。池田先生の資料には「ウタノヒカス」(31日まで経ても・・)となっていましたので、疑問に思ったと言う事でした。中々準備が足りないと、上手くいきません!(汗)次回からは、ちゃんと準備しなくては、と反省しました!

 

・・・と言うわけで、今回は合田さんの「うらやみて カリの親子ぞ」の論考も大きく取り上げられましたし、私の「大津神社の獅子舞」を見た感想についてもご紹介頂けました!\(^-^)/本当に有難い『ホツマツタヱ』の最終回となって、とっても良かったです!

 

 また次回からは、ミカサフミが始まりますので、益々楽しみにしています♪( ◠‿◠ )以上、今回も分かりにくい話だったとは思いますが、最後までお付き合い下さいました方には心より感謝致します。有難うございました。ではまた。

 

今日から「はてなブログ」を始めます♪

 こんにちは。( ◠‿◠ )♪

 今日から、JUGEMさんでの「ヲシテブログ」をお引っ越しして、はてなブログの方に書こうと思います。無料範囲でアップできる画像の容量がいっぱいになって、これ以上はできないので移動を考えました。有料で続けても良いのですが、無料の方がブログが残るような気がしましたし、JUGEMブログの方には、検閲による制限がかかってしまったように思いますので、新たな旅たちをしたくなりました。是非、「ヲシテ文献」に興味のある方には、お付き合い頂けると有り難いです。

 

 下の写真は、2014年5月6日に行われた、飛騨の神岡「大津神社」の20年に一度の式年大祭の神事の模様です。大変に多くの神社の神職さんが集まっての大祭となりました。

 『ホツマツタヱ』の40アヤ最後の箇所に、「大彦の命」(オオヒコさん)の孫の「イワカ」さんが、「カシマカグラ」(鹿島神楽)の獅子舞に大変に興味をもたれた事が書かれています。この「大津神社」では、獅子舞が盛大に繰り広げられるようになったのも、この「イワカ」さんの影響によるものだと思いましたので、ここに祭事の様子をアップさせて頂きました。

大津神社での大祭の模様

 獅子舞の模様は、何組もの地域の方々が、このように盛大に繰り広げてくださいました。

大津神社の獅子舞大会

 今日は、昨日の2024年3月16日(土曜日)に、京都「ヲシテ講習会」において、『ホツマツタヱ』の40アヤ全巻がちょうど一通り終わり、最後の記事のオオヒコさんの事を思い出しながら、古い写真をアップしてみました。

 ・・何を言っているのか?? 中々分からない事もあると思いますが、何となく写真をみるだけでも楽しいと思いますので、不思議で素晴らしい古の日本の話に、これからもお付き合い下さいませ。( ◠‿◠ )♪